1995年1月17日、未曾有の被害をもたらした阪神淡路大震災から、今日で30年が経ちました。
当時25歳の私は、和歌山の実家で震災を経験しました。
当時私は大阪市内で一人暮らしをしていましたが、週末を実家で過ごし、成人の日の振り替え休日明けの火曜日の朝に、実家から大阪の職場に出勤するつもりでいました。
朝の5時46分、まだ布団の中の私は大きな揺れで目を覚ましました。
その瞬間は、まさか神戸を中心にあんなことになっているとは想像すら出来ませんでした。
当日は、関西の電車も高速道路もすべてストップしていたため、大阪市内の職場に出勤することも出来ずに、信じられない神戸の街の様子をテレビで見ることしか出来ませんでした。
当時の私は、高速道路の高架橋等を手掛ける橋梁メーカーの営業職として、神戸を含む関西全域を担当していました。
震災から10日ほど経って、阪神間で最も早く神戸市内まで開通したのが、阪神電車の青木駅までだったため、開通後には青木駅から三宮まで約10キロほどを歩いて現場の確認に向かいました。
至る所でビルや家屋が倒壊し、変わり果てた街の姿に呆然としたことを今でも鮮明に覚えています。
6434人の尊い命が奪われた震災から30年が経ち、震災を知らない世代にとって、災害の記憶は単なる過去の出来事であるかもしれません。
しかし、災害はいつでも私たちの生活を襲う可能性があります。
南海トラフ地震も迫っていると言われる現状で、その備えと備えを持つことが、自分や家族、地域社会を守る方法です。
今、私たちができることは、震災を「歴史」ではなく「教訓」として次の世代に伝えること、震災を経験した世代として、やらなければならないことを再度考え行動します。

木下憲治(キノシタケンジ)

最新記事 by 木下憲治(キノシタケンジ) (全て見る)
- 阪神淡路大震災から30年、語り継ぐべきこと - 2025年1月17日
- 木材の利用が自然災害のリスクを減らす - 2024年10月11日
- 母校の文化祭「ジェットコースター制作」に資材提供させていただきました。 - 2024年9月26日